災害は忘れる間もなくやってくる

コロナ禍騒動以来、外出がめっきり減った。自主的に減らしていることも勿論だが、冷静に考えてみて、過去数十年に余りにも色んな所に出掛けてきたものだから、何処にも行かなくても良いやとなっている自分が居る。特に苦痛でも無いし、むしろ、ちまちまと調子が悪くなったオーディオ装置にちょっかいを出したり、書籍棚を整理したりと、取っておいたことに着手し始めたという感じがする。東京では連日100人を超える新規感染者数が報道されているが、1千万人が活動した中での100人を多いと見るか少ないと見るか。

東京近傍の知事殿達が、東京との行き来に懸念を抱いていると発表しているが、東京だけのせいにして良いのか?同数程度の人が暮らしていて、お互いが行き来することで経済活動を成立させていたはずだ。PCR検査なる情報収集密度を上げてみればまっとうな評価ができそうだが、どうもこの国にはそんなつもりは無いらしい。暮らしたら負けという国にならなければ良いがと醒めつつある。醒めると言っても何から醒めるのだろうと、白けた自分に苦笑いしながら、街の地域清掃での道路脇の草取りなどをしながら、雑草と呼ばれる植物たちの繁茂の力に感動するのだ。

付加体と地学用語で言われるが、大陸移動の結果、海底のサンゴやプランクトンの死骸、多くのミネラルを含んだ大地からなる日本の太平洋側は、植物にとって極めて発生しやすい土壌であって、その有効活用が食料を得るための一助となる筈なのだが、巨大なプラントで埋め尽くして海外から食料を買えば良いという流れになっているが、コロナ禍やバッタ禍によって、それも何時まで続くやらである。選挙をすれば30%にも満たない投票率で自らの行く末に責任を持つ意志すら無い。この国、大丈夫か?

川が反乱すれば、過去に民主党政権がダム建設を停止したからだと、既に次の選挙を見据えた足の引張が(引っ張り合いでは無い、一方的な扇動である)情報操作としてもたらされるわけだが、地球温暖化が人為的なものだとするならば、これは誰が悪いとか言うべきことではなくて、一人一人が自分の生活様式を換えていくしか無いのだ。過剰な便利を得ようとした結果が、豪雨を発生させて居るだけであって、100年単位で暮らしを考えることを、為政者が放棄した結果である。その為政者を選ぶのは一人一人である。改めて自分に言い聞かせる熊本の災害である。