施餓鬼

久しぶりに強烈な日差しに包まれた昨日、午後にちょこっと自転車の整備をしようと日向にでたのだが、夏慣れしていない体に猛烈に襲いかかる日差しにたまげた。そうか、こんな調子だったなと、今年初めての夏の体験という雰囲気に、ちょこっと嬉しかったりもする。雨ばっかりの曇りがちな空よりは、どかっと晴れ渡ってくれる方が嬉しく感じる。日中、表に出ていることはあまり無いのだが、強烈な紫外線が大気を浄化してくれるようで、やはり太陽は頼もしい。

新盆、旧盆と、お寺が儲ける時期がいくつかあるわけだが、施餓鬼という、餓鬼に施すと書く凄まじい表現だなと、その昔に思った。それなりの人に聞いてみると、基本、ほぼ地獄に堕ちているわけで、そこで人間の本性である食べ物への執着だけが残った状態、即ち、餓鬼となっているご先祖に、生前、好きであった食べ物を施すことが施餓鬼という、なんだかなぁと納得してよいのか悪いのか解らないが、先祖に手を合わせることは間違ってはいまい。繋がりに感謝するわけだ。

この執着とは厄介なものだなと常々思う。何も無ければそれはそれで良いのだが、今より便利な生活にならないものかとか、地下鉄の混雑は無くならないかとか、実に低次元のことにも思い悩んでしまう。まぁ、そこまで激しく思い続けるということは無いわけだが、そんな執着対象を積み重ねていくと、無限に深くて広い地獄でないと容量オーバーになってしまうのだろうなと、地獄の有様を考えた人の思考に感激するわけだ。よくもまぁ、そこまで考えられましたねと、定量的に地獄を決められた方に直接お会いしてみたかったものだ。

墓参りに執着しようとも、他県に動くのが憚られる昨今である。直ぐそこにあるということでもない限り、なかなか行くことが出来ない。この様に思っていることが供養なのだと勝手に解釈して、要するに言い訳をするわけだが、まぁ、いずれ収まる筈の自然災害であるから、じっと待つのが良い。焦って感染拡大の元凶になってはそれこそ申し訳が立たない。執着するなと言う教えの元で、執着しないといけない仕組みがあることに、まぁ、恐れ入るわけだ。暫くはおとなしくしている。まぁ、それが正解だろう。