巨木

そこにどっしりと存在し、これからもずっとそこに居て欲しいと願う巨木。巨木信仰者では無いが、巨木があると聞くと、いや、それを知ると、強烈に出会いたくなる。雨ばっかりの休日ではあったが、金曜日の曇りの間をついて、近場のまだ見ぬ巨木に出会ってきた。愛知県下では3番めに大きいというそれは、樹齢千年を数え、それを中心として集落が形成され、今も、大切に祀られて何とも清々しい気分にさせて頂ける空間であった。

清少納言が枕草子を起こし、藤原道長の政治の時代であり、荘園に平等院が計画された頃である。今と同様に貧富の差激しく、政治家が足を引っ張り合っていた頃が、日本における凡そ千年前である。その頃に芽吹いた若芽が、今、山のごとく成長して出会ってくれるのだ。なんと素晴らしいことではないか。若造など何処かに行ってしまえなどとは言わない。門前払いも無い。根を傷つけぬ様、そっと触れる。暖かい。

山の本によれば、樹木の根を踏みにじるのは人間だけだそうで、鹿もイノシシも、根は避けて歩くのだそうだ。有名な縄文杉だって、昭和の旅行ブームで人が根っこを踏み歩き、樹勢がかなり落ち、回廊が作られたわけで、自然界の数千年も人為的行為の数年に負けるのだなと、自然をそのままにしながらの共生というのは不可能なのだなと、学生時代の新聞記事に想ったことを思い出す。

つい先日も、嵐で大湫神社の千年の大杉が倒れたばかりだ。目の前の巨樹と再開できるかどうかは解らない。近寄らないほうが良かったのかも知れない。たった一人の行動なのだが、人為的作用が自然にもたらす影響を考えると恐ろしくなる。ウイルスにワクチンをもって戦おうとしているが、そもそも未知のウイルスを自然界から引っ張り出したのは人為的行為であって、巨木はどう見ているのだろうと仰ぎ見てもじっとこちらを見つめているだけだ。千年の命の重さ。頭が垂れる。