じっくりと活字に没頭できる。何という幸せ感覚か。他の知識に触れ、自らの思考に拠って知恵に変化する。それを智慧に昇華させねばならぬが、それは閉じた個で醸成されるものではないからほったらかしておく。このほったらかしばかりが社会活動になってしまっていて、「入り」が無いのが日常となってしまうのがよろしく無い。民度の低さを実感してしまうのだが、お盆という日本の伝統芸能のおかげで、久しぶりの「入り」が体験でき心地よい。
きょろきょろと辺りを見渡すと「入り」の時は宝物であったが、いつの間にか想い出になり、そしてゴミと化している物品が山のようにある。時々、気が狂ったように廃棄するのであるが、ゴミがある内は生きている理由を与えられたような気がして、一気の断捨離はしないようにしている。いや、これも負け惜しみというものだが。ふと、メインスピーカーの上に小冊子を見出した。何と2008年3月の出版である。パラパラとめくってみる。
するとそこに某有名私立大学のWeb講義のネタが出ている。流石と感じたのは「Web講義だけで学問を身につけられる者は少数であることは解っている。重要なのは質問を誘発することで、その質問に丁寧に答えることである」と書かれている。対面講義であっても、講義終了後、質問しに教壇まで攻め入ってくる学生は、定期試験によって理解が成されていることを知ることが出来る。質問しに来た学生の顔は覚えるし、例え100人を超える試験会場であってもその彼を見出して、見回りに行くから間違いない。
質問力こそ知恵であり、それがいつかその彼の智慧になる。智慧は実となり、いつか誰かの心に入り込み「入り」による芽生えを待つのだ。対面授業だとかWeb講義だとかの「入り」の形式が問題ではないのだ。その中身が「入り」に相応しいかどうかである。世界を見渡せば当たり前のことが出来ていない。先祖に感謝して線香の一本をあげる。 受け継いだものが何かあったのだろう。それが「入り」ということだと思う。何か智慧に繋がったか?それは自らが反省し心を断捨離していって最後に残って見つけることに成るのかも知れない。そんなことを思ったお盆である。