自分

あれっと驚く、いや、そう思う。驚くのではない、意外だなと思うことでもない、さっきと違うことが起こると、あれ?何故なのだろうと思っても悪くは無かろう。そう、何故、予測、嫌、思っていたこととは異なる事が目の前で発生するのであろうか。他人が介在すれば疑問に抱く必要はない。自らしか居ない、この瞬間に、まるで異なる未来が現れる。驚くが、愉快と思うべきなのだろう。

安全は前提、安心は約束するもの、確実は確率的に限りなく高く持つべきもの。工業製品の持つべき機能はこんなところだろう。それを威張る。まぁ、威張る。小生も威張っているかもしれない。でもそれば何の価値もない。100年前に生まれた量子力学が語っている。確率であると。電気的信号のやり取りが途切れないから偉いと言う。ばっかぢゃなかろうか?少なくとも二十歳以下の諸君にとって絶対なんぞ求めているものではないし、価値などゼロだ。

思いもよらないものが正しい。機械が精緻に動いて予測の通りのものが出来る。所詮、過去の頭脳が生み出した産物だ。感動はない。あり得ない素晴らしさこそ「求めもしない感動」であって、予測し、求めたものに価値があると思っているそこの人、退場して下さい。もう、要らないから。

師は語っていた。配列があって確率がある。小生はその時に語って怒鳴られた。配列も連続も無いからこそ、電荷の無限遠の意味があるのではないかと。宇宙が広がりを持つのではないかと。その怒鳴りと対抗にこそ価値があると思っている。誰も正しくも間違ってもいないのだ。発想があって永遠の確認がある。それを認めるだけではないのか。所詮、目に見えないウイルスに怯えているだけの人類である。次が来るだろう。