打っても響かないコミュニケーションギャップ。永遠に乗り越えられず、いや、乗り越える必要は無いのではと感じるようになってきている。独りよがり防止の為には、ストレートに文句を仰って頂ける方だけでは無く、「何で解ってくれないのよ!」と宇宙的地球人の存在が重要である。芸術の解釈などという高尚なものではなくて、「これって〇〇だから良いよね」って話しかけた途端、相槌を打ちながら顔の筋肉が硬直する人。こんな人は大切な方である。
ギャップを逆手に、これは理解されないだろうということを前提に、遠回りして本音を引き出すということもしてみるのだが、相手の本音が、今度はこっちが分からない。ギャップがあるのだ。そりゃぁそうだ。全てが違うのだもの。社会では「法の解釈」などと、決まった条文に見えても解釈が異なっても良いことになっている。そもそも論としてギャップが前提に世の中が構築されているのだ。
釣鐘を打てば響くだろう。大なり小なりの音がする。鐘が鳴るなり法隆寺ということなのだが、どんな鐘の音か?法隆寺で聞いたことがあるという人が居るかもしれないが、聴覚神経の問題もあるが、その空気感、日頃からの感受性などで、どんな音色ですかと聞けば全く違う答えが来るだろうし、情景を絵に書いてみなさいと言われれば絶望的だ。比喩を使ってもその比喩の解釈がそもそも違う。ギャップがあるのだ。
人が笑顔になる価値をゲージとして小生は利用するのだが、「自社の利益だけが生きる喜びで、他人の幸せを見るのが不幸だ」というアンチ他人的企業軍団のお偉い皆様に、「国家国民の笑顔の実現から始まって・・」みたいな演説をぶっても全く無駄である。誰にも響かない。偽善者と言われるだけである。とは言うものの、コミュニケーションとは人生の一丁目一番地であるから、なんとかならないかとあえぐわけだが、なかなかどうしてうまくいかない。だから戯言を言う。それだけの事だ。