自分の明日

美国の大統領選挙が続いているわけですが、それを気にすることは大切なのだけれど、自国として何をどうするかのほうがよっぽど重要だ。そうなんだけど、なんだかほっぽらかされるわけですよ。何かあると競争しろという。競争というのは少なくともスタート地点が同じで、ゴールが同じ時に、力の優劣が明白に成る道具だと思うのだが、ところがそれが違うというのが我が国の伝統芸ですな。ゴールに入っている奴に勝てという。

自分達でなんともならないから、何とかしてくれという。ただし、ゼロ円だという。これが我が国のあり方で、まぁ、それで成り立っているところが面白おかしくもあるのだ。将棋の駒を全部持っているから勝ちだと思っている。既にルールが変わっているというのに、過去に安住の地があると信じ続けている。まぁ、どうぞ、そのままでいらっしゃるのが良い。地面も走れなければ空も飛べない。

いやいや、お若い方々は頑張っていらっしゃる。力を合わせてドローンを飛ばしGPSで宇宙基準で自分を見つめる。そして耕し、工場誘致という国土破壊から農地を救い、食料生産を高効率で行っていらっしゃる。いや、一人ひとりにあった面白いツールを、文化を作っていらっしゃる。そんな方々が続々と出現している今であっても、四ツ輪神話にしがみついて、まぁ、なんといいましょうかね。

既に就職から起業という流れが出来始めている。日本においてもそうだ。学生時代に身につけた能力と、そして世界の笑顔に通じるアイデアがあれば、直ちに挑戦できるというものだ。勿論、無責任なことは言わない。全てが明日の糧に繋がるかと言えばそうではない。ではDXすらおぼつかない大企業に身を投じることが正しいのですか?それは解らない。一つ言えることは、必死に学ばなければならないということだ。どんな失敗でも救われると思ったら大間違いだ。それだけは永遠の真理だ。それは正しい。そいいうものだ。