会議の持ちよう

全く異なる素地の方に真っ向から意見を言っていただいて、そっか、そんな考え方は良いなと思える時は快感である。不快な後ろ向きや『アンチ他人』的意見ではなく、建設的反対意見。いや、反対ではない、建設的「建設意見」であって、おぉなるほどと思う。そのための原案、たたき台であって、見事に叩いていただくと、それはそれは愉快ですな。そこに参加して頂いているメンバー全員が前向きであり、不満も仰って頂ける間柄は有り難い。

アンチ他人はいかん。自らの幸せよりも他人の不幸を喜び、幸せを妬み呪うアンチ他人的生き方が何故出来るのだろう?小生的には全く理解できないから、思いっきり困ってしまうのだ。有識者は「聴いてやれ」と仰るのだが、人生ゲームのボードの上にボーリングの玉を転がしてくる人とどう会話するのか?聴き力ということだが、笑って聴いてはいられるが、その通りに活動できるものではない。

結論有りきの時は余程の時だ。本社が「こうしろ」と言っている時は、どんなにジタバタしてもそうなるのだ。それには納得はいらない。組織はそちらに向かいますという宣言しか無い。そうでは無い時には「この範囲に入れば満点だな」というところですよ。出来るだけ広いスペクトルを持った方々に正直ベースでお話を頂いて、何故?何故・・・を繰り返す。見えてくるものがあれば、それを次のたたき台にさせて頂く。

聴いたふりはする必要がない。これが良い。ある人は「もう決まっているのだ」と意見を言わせた後に平然と仰ったが、それはまさしくルール違反であって、議長の資格は全く無い。それでは会議ではないのだ。変更、付加の余地があるから議論の場を持つことが許される。前向きなどんでん返しは大いに結構だし、好ましい。のほほん、のほほん、一歩一歩である。