幸福のシェア

きつくて嫌なご意見を頂ける関係こそ信頼なのだと感じている。事実そうだ。忖度政治はその真逆であるわけだが、目に見えないけれど存在するであろう精神的レベルの信頼感こそ持ちたいものだ。ぶつぶつ交換の時代では個対個の信頼であったわけで、信頼は極めて狭い範囲で成り立っている。それぞれが所属している領域はいがみ合っていても、個の信頼で何かを成す。集団の知恵が得られない、そんなピンポイントな信頼だ。

「心の豊かさ」なんて大袈裟なことを語ってしまうわけだが、ローカルな信頼で何処までそれが得られるのか?「豊かさ」のKPIを考えると、個の所有では無く他との共有というところに行きつくのだと思っている。共に素晴らしいと思いあえる関係こそ、豊かさの定義であろう。とすると、「心の豊かさ」の共有の末には、きっと幸福というものがあるのだろう。

個人のステータスを価値だと信じ込んでいらっしゃる方は極めて多いのだが、そんなもので空腹は満たされない。信頼し合える環境にあってこそだし、それは貨幣ではなく連鎖というものであろう。空間的にも時間的にも広がりを有する信頼関係こそ価値であって、貨幣に換えられるものではない。貨幣経済に縛られている方々には想像できないであろう。

綺麗ごとばかりではない。挫折は必須の体験項目だ。それが無い方々とお付き合いは出来るものでは無い。ステークホルダの言うことを聴けなどとストレスを与えられるが、挫折レスの民をステークホルダ認定することは出来ない。お互いの幸せを分かち合える、そんな組織づくりこそリーダーの務めであろう。各々のスキルは何か?それも私物化しない。そんな社会になったら良いな、そう思っている。