セメント

足元を見ておやっと思った。電線を地中に埋めて、安全と世間の美しさにこだわって、アスファルト道路という仕組みを構築したのは、灯りを創ったエジソンであるが、セメントってどこの誰が商用というか工業的に使うようにしたのかと。調べてみても9000年程度前に使われた痕跡があるということしか分からない。カルシウム成分は大地に豊富にあるから、なんか使ってみようかみたいな感じで使われたのかもしれない。研究よりも先に開発が行われた事例のようだ。

縄文期以前からトイレがあったり、竪穴式住居があったりと、ホモサピエンスは頑張るなぁと最近妙に感心する。科学と技術という点において、例えば木を切るという当たり前の行為ですら、人為的に木材の繊維を断ち切るという極めて困難なことを当たり前のようにやってのけている。メソポタミア文明とてBC3000年程度だ。1万年以上も前に石を削り木を断ち切る。そんなことを我らが祖先は行っていた。

自分だけの安住のためでは無く、皆で皆の快適さを作り合っていた。なんと素晴らしい事か。セメントで固められた道路を見ていて、人間っていろいろとやるものだなぁとしみじみと思ったのである。こんなことを実現したら面白かろうという見方と、こんな社会に暮らしたいからこんなものがあったら良かろうという見方からのものの創造は、随分と価値が変わる。後者の残念なのは大概、儲けに繋がらないことではあるのだが、皆が幸せになるのだから、まぁ、我慢するべきか。

今朝も随分と寒い。駅から大学までの間に建築現場があって、セメントでべた基礎を打っているところに真っ白な霜が降りている。ほうとなかなかの景色だなと思って少し行くと別の現場があって、こちらには全く霜などは無い。霜が降りるか降りないか、なんかその上に建つ家の風景が浮かんでくる。寒さで凍えるか平穏に暮らせるか。良いものは良いのだろう。これでどれだけの対価が支払われるのか。相当に違っても良い。そうでなければならない。それに対価を支払わない人種は、正に1万年以前の野蛮人だろう。セメントの一角をみて妙に熱くなった私であります。