「私達は〇に貢献した!」と仰るのであれば、あなた達が関与しなかったら□になっていて、それが△になった、その微分値が、全体を俯瞰して正の効果がこれこれになっている、だから〇に貢献したんだと言わねばならない。何かをやったからそれは正の微分値を組織にもたらすはずだという思い込み。言ってみればビジネスモデルが最初から出来ていないから、昨年やったことを今年もやって、それを過去、言われてきた事柄に照らして自己評価する。お役所では常套手段だけど、民間企業でそれはいかんわなぁ。
実際のところ、活動を評価するって難しいですよ。そもそも想定の通りのリアクションを得るには、相当の仕掛けが必要ですからね。その場で取り繕って良いのであれば何とかなるかもしれないけれど、近年、炎上屋さんも居ますからね。定量的に数値化されるものは費用対効果が明確なのですが、それとて利用者が一人しかいませんでしたってことになってはね、価値を生んでいることにはならない。
オリンピックでのあれこれをTV等で見聞きすると、まぁ、そこで公開されている情報は判断するに適切な質と量が与えられているのかにも疑問があるわけですが、アンチ他人的な物言いに悲しくなるというか寂しくなるというか。そんなに他人が幸せになるのが嫌ですか?いいじゃないですか、一緒に喜んだって。他人の評価が素晴らしかったら、それはそれで良いじゃないですか。もっと頑張ろうって思えば良いだけですよ。出来るんでしょ?
行動を確実に価値化していく。欧米人は上手だと思います。それは議論の中で解を見出していく活動、教育が物心着いた時から成されているからなんだろうなって、しみじみ思うのですよ。最初から決まっている事柄なのに「みんなで考えた結果そうなった」という落としどころの為に、会議というなの時間の無駄を積み重ねる。報告書というゴミを作る。意味の無いことは、意味があるように変えないといけない。面倒で勇気がいるけど、やらないといけない。ため息もでない。