誰かが居なくなる

なるほどねと皆思う。そして前に進んだと思っても、確実に後ろに下がっている。これが王道のベクトルということだろう。正しいと思っても、決してそれは正しくない。正しいことと思うことはまるでちがう。為政者がこっちだと言ってもまるでちがう。で、問題はここだ。社会が作るベクトルが正しいのか?正しいこともあればまるで異なることも有る。

お盆という行事がやってくる。全く関係は無いのだが、お盆という単語を聞くと、太宰府の門前町で梅が枝餅を食べたあの時を想い出す。天下の為に生きたのに、皆、あの者は嘘つきだと、天地神明、美しき心を持っていたとしても、まさに地獄に追いやる。それはあなたです。ほら、そこに居るでしょ、君です、貴方です。みんな、自分が恋しいのですね、そうです、そんなもんです。

いやぁ、実に面白い。そろそろ職業人として終末なのですが、「私はこれで挑戦したい」と、誰も言ってこない。だから何だということもない。研究室が無くなるという事実は、正直、そこを旅立った者達の挑戦にほかならない。みな、当たり前に生きる。生きるのだが、それが何か意味があるのか?生きる意味、小生も思いつめる。

そう、自分自身、何故、生きるのか?生きるとはなにか?猛烈な勢いで車に跳ね飛ばされて、生死をさまよったとしても、生きてみると何も無い。単に、生きているだけだ。そう、生きている者は、人の辛さなど何も解らない。お盆がやってくる。そこにはご先祖がいらっしゃる。自分の立場を少しでも考えてみる。それがお盆という、日本人の有り難さだと思う。