名古屋の辺境から中心部に向かって自転車で走っていると「八事の坂」を超えると世界が変わるなと感じる。そもそも論、気温が変わる。体感温度で1度は変わる。勿論、中心部が暖かい。坂を登りきるとF店があり、住まわれている方も違うなぁと苦笑いする。五重塔の前を過ぎると、普通の街に戻るわけだが、それでも天白川のあっちとこっちとでは空気感も違う。早朝には人影がまばらなエリアが、天白川を超えると、早朝でさえ人のざわめきを感じる。路地から飛び出す自動車も積極的だ。神経が研ぎ澄まされる。何処から何が飛び出してくるか、恐怖に怯えながら通勤するのが都会という所であろう。
何が変わったって、非常事態宣言解除以降、まず、街中の自動車の増加に驚かされる。過去の解除の後はそれ程感じなかったが、今回は「もう全てが終わった」感の中、自在な活動で満ち溢れていますな。早朝においても幹線道路の交通量は明らかに増え、帰路においては、コロナ禍前よりも増えたのではないかというくらい、殺気立った活動になっている。五十日(ごとうび、今は死語か?)だからか、昨日の混雑すさまじく、路駐も激しく、自転車の市民権はやはり無いのだなと実感する。コロナ禍で増えたと言われた自転車通勤者だが、まぁ、元の木阿弥なんですな。
そして何より目立つのが、脱マスク人間。佐山聡じゃないですよ(これも死語か?)着マスク、手消毒、うがいとうのが現在も続いていると思っているのだが、どうも社会の流れはそうでも無さそうだ。感染者が激減しているとのマスコミの報道も後押ししているのだろう。いや、実際に、なんの影響も無いのであればそうしたいものだ。何やら飲み薬が登場してきて、それが効果があるらしいという。そうであれば、実際に、マスクなど要らないのかもしれないが、慣れと言うのは恐ろしいもので、マスク活動が平時の必須アイテムになってしまった感覚はそう簡単には無くならないものだなと。
以前は自転車走行時にPM2.5対策でマスクをしようかなと思っても、何となく気恥ずかしかったわけだが、今では堂々とN95マスクをきっちりと装着し、喉や鼻のなんと心地良いことか。それを謳歌してきたわけだが、逆に冷ややかに見下されているような気になる。気になるのだが、折角、獲得した呼吸の快適さを放棄する気には全くなれない。アフターコロナとか語ってくれるなかれ。コロナによって得られた快適も多いと感じている。個人個人で獲得した有意な事象を手放す必要は全く無かろう。リモートワークしかり、排気ガスで溢れた街中でのマスクしかり。人は人、自分は自分。傾奇者と言われようが、今を貫こうと思う(大袈裟)私であります。