鬼だの野獣だのと言われることが多いわけだが、案外「この人は10年後にはこうなっているだろう、いて欲しい」と願ってお話をさせて頂いたりしている。そう思って頂けないことは解っている。何しろ、その人も周りの人も、大抵、10年後には隣に居ないからだ。ちょっと貴重な体験をさせて頂いた。戯言で回顧録も無いもんだが、まぁ珍しいので。とあるところでとある評価をさせて頂いた時のことだ。
小生が携わってきた分野では至極当たり前の道具を、そうではない分野の方が活用して「私は新しいという」。そう、道具が新しいのではなく、使い方が新しいのだ。専門家からはあれやこれやと突っ込まれて、云わばサンドバッグ状態だったのだが、蓋を開けたらその打ちまくった方々の評価が高かった。異分野であれだけの質問に耐えたという事は、それなりに自分自身で学び、自らの技術として昇華させていたからに違いないと。全く同感であって、専門家側としてとても嬉しく感じた。そう、若手に対する愛情は荒っぽいが、将来を見据えて評価をされるベテラン。
一方で、書面審査では一見、凄いんだけど、面談をしてみると「結局、何をあなたはやったのですか?」というところに疑問符がついてしまうとか、「俺は新しいのだ!」と強調するだけで「で、何をやったの?」という問いに対しても新しいのだ!としか言わない。新しいと言えるエビデンスはと言っても何も出てこない。ビッグデータサイエンスになると、そのデータの確からしさ、獲得したデータと他の事象との分離とかね、自然界を相手にしようとすると、AIが判定したから正しいでしょと言われても、将棋と違って勝ち負けの白黒が着くわけでは無いからね。
プレゼン環境に対して文句を言うとかね。じゃぁ、どうしたら良かったのでしょうという問いに対しては「気に入らなかった」の一点張りで共に成長しようとする気持ちが無いとかね。要するに「暖かくない」のだ。単に苦情であって、解決策の提案が無い。そんな学者の言う事を社会は信用するだろうか?プレゼンを聴いていて、内容は素晴らしいなと感じても、質問の受け答えとか、段々ぼろが出てくる様とか、それは無いだろうということになったのは、ご自分の研究成果への謙虚さと学び続ける姿勢が無いからでしょ。結局は人なのだ。研究も政治もそうなのだと改めて実感した。ちょっと心地良かったので記してみた。