何か新しい事を求めるあなたに

何を持って新しいというかは、その人の感性に依るのかもしれない。論文になっていたり、出版されていたりしたら「もう古い」と語る方もいらっしゃるだろうし、社会一般の過半数が知っている、使っているとなったら「もう古い」判定をされても良いのではという方も当然あってよろしい。学術雑誌が届いて「量子リザバーコンピューティング」なる文字を見て、面白そうだなと読んでみて、小生にとっては新しいなと感じたのだが、相当数の参考文献が挙がっていて、2017年の論文が出発論文として引用されているから、その道の方にとってみては「今更何を言っているのか?」ということになるのでしょう。何が言いたいかと言えば「新しさ」の定義は難しいなという事。

昨日、ご来客があって「何か新しい事をしなければなりませんと言う。そりゃぁそうだろうと思うのだ。これだけ世界が猛烈な勢いで動いていっているわけだから、財源無いのにばらまきの政治に走るとかね。ばらまいたら景気が良くなるって本気で思っているのかね?そこまで古い手法に拘らなくても良いのにと思うのだが、国民の大望だから仕方が無かろう。そんな愚痴はほったらかして、「何か新しい事」ってなんだろうね。その人は行き詰まった現状を打破するべく「何か新しい事」に挑もうとされてはいらっしゃるのだが、「具体的には?」の問いかけには無言であった。

そこに学び方の過ちがあるのではと感じるのだ。与えられた課題に対して、他者の力を借りながら前に進んでいくトレーニングは幼少の頃から十二分に積んできている。ゲームなどはその最たる例だ。「昆虫の絵を書いてみましょう」とかね、具体的な指示が出される。感想文を書けと言えば「こう書くのだ」という指示付きだ。あの世に行っても閻魔様に「地獄に堕ちろ」と行き先が支持されますからね、考えずとも行くところはある。ところがだ、「何か新しい事」にという課題迄行きつくのだが、その次の一歩を踏み出せる「お若い人」に出会ったことは無い。悲しいかなそれが現実である。

小さい頃から英才教育、私学に通ってエスカレーター方式で「いいとこの秀才」で、立派な?大学にご入学、そして一流企業という、まぁ、敷かれたレール一直線、わき目もふらず学ぶだけ学び、その学びを活かして「挑戦して失敗する」ことを体験してこなかった。
挫折が無い方には「何か新しい事」は絶対に生み出せない。小生は絶対という単語は大嫌いだが、ここにだけは思いを込めて言い切ってみたい。何か新しい事をやりたいのであれば、挑戦して挫折せよ。それを繰り返せ。すると何か見えてくる。自分が本当にやりたいことを。それはもう、新しくても古くても良いのだ。それが目の前に無ければ尚良い。進めばよかろう。それだけだ。