我が国の大学の、明治の際の存置理由として、国際社会で我が国が名誉ある地位に立てることが挙げられていた。開国から本格的に西洋列強の文化を学び、それを取り入れながら、自国の「人」を育てる仕組みとして、明確なKPIを持っていたわけだ。帝国大学というポジションである。官立であり、西洋の政治家と丁々発止していくわけだから、正に帝大は官僚養成が主眼であったはずだ。赤門大学の学部を見ればその有り様は明確である。当時とすれば明確に分離された学問体系の中で何を学び身に着けるかと言ったところであろう。漱石の小説が、帝大を出れば官僚という道筋が見て取れる。それは正に、国際社会で名誉ある地位の獲得に進んでいったことを意味している。
それから100年以上が経過しているわけで、その初心は貫徹されているかと疑問になる。赤門大学を卒業された方が官僚に進まれず、どんどん立法府がやせ細って行っている感があるのだ。国際社会で名誉ある地位を保ち続けるというか、より良くし続けないと、保つどころか落ち込んでいくのだ。そんな状況にある中で、予算ばかりがばらまかれる。国際的に本当に新しいものが出て行っているのか?
名誉あるという単語もしばらく聞いていないような気がする。ノーベル賞とかはね、間違いなく名誉なんだけど、世界の中で日本が名誉ある地位にあるのか?ワクチンも随分と後回しにされたしね。世界から日本人の命を守らないと、世界に損失が生じるって考えて頂けているのかしらと疑念を抱く。世界的な論文誌に出していますと個々には言うけれど、いろんな指標でランク付けされて、東と西の帝国大学がやっとこさっとこ100位以内に入る状況ですからね。教育機関として国際社会で名誉ある地位かと言われると苦しい。
じゃぁ、何とかしろよとなるのだけれど、一朝一夕で何とかなるものでは無い。GDPが下がってきて、労働者人口が激減し、青少年も激減した。医療保険だけが等比級数的に拡大している国家において「文教予算なんてゼロにしてやる」という政治家諸氏が頑張っている国家である。百年先にしか結果が出無いようなところに投資をしたら、次の選挙で落選するさって、それを納得する国民も国民だ。と思うんだけどね。まぁ、何を言ってもしょうがないんだけど、百年前の方々は国際社会で名誉ある地位を獲得するためには教育だって仰ったんだけどね。今の為政者は?はてさてね?まぁ、国民の選択だから諦めるか?