マイクロがよろしい

企業をリタイアされて、松坂屋の文化講演会を聴くが如くに趣味レベルで大学院教育プログラムに手を挙げて、入学を希望される方が後を絶たない。否定はしないが「得た知識を何に活用されるのですか?」と問うと「何かに活かせれば良いですね」のお返事。国の税金をそんなことに投入できるわけは無く、「次の方どうぞ」となってしまう。勿論、全ての方がそうでは無くて、「他企業に移るのだが、その為にこんな知識を専門的に身に着けて、企業の為に働く為に学ぶのだ」という方もいらっしゃる。それは素晴らしい事だ。目的を持ったプログラム構成になっているから、自らにそのプログラムを活用する方針があれば全く問題無い。

日本を除く世界中でマイクロレデンシャルやナノ・ディグリーという考え方で、「この専門知識を確実に身に着けたい」という者に対し、大学人が学理を基盤として、受講者に活用できる知識を取得して頂く仕組みである。海外では(こればっかり)、大学の学位の様なものでは無いが、実社会で活用するに十分な知識を得た者に対して、知識・技能を身に着けましたよと、社会が認定して頂ける形になってきている。我が国では例によって「そんなもん、あきまへんな」となっているわけだが、修了証では無く、修了証明としてその人物の能力を保証する仕掛けが海外ではまかり通っているわけだ。

こんなことを書いていると遥か昔に学位を頂いたと言っている自分が情けないわけだが、それよりも、最新の学問を実社会での活動に役立てる様に作られたゼミを受講して、その修了証明を獲得している方が当該分野で活躍できるのは自明の理である。尤も、こんなタイトルの学位論文を書きましたと威張る学者は居ないわけだが、企業の方が2年間若しくは3年間のプログラムを受講するのは時間的に極めて厳しく、また、学位取得が必須でもなければ、必要とする知識を四半期から最長でも1年で獲得できるナノ・ディグリーなどは優れた人材機能認定制度だなと思うのだ。

認定は大学でD〇合取得者が主催するゼミの主宰が行えば良く、最も得意とするところを秩序だって纏めた結果を提供することになるので、研究者側にとっても考えを纏めて次に繋げていく上でも実践的トレーニングとなる。双方Win-Winであって、受講者が社会にもたらす機能から生まれる価値を考えれば、それこそ三方良しである。実践で得た問題を自ら打ち破る機能を身に着け、それを社会に還元する。大学のお墨付きよりも研究者のお墨付きを尊べる風潮がこの国に生まれるかどうかは解らないが、世界ではとっくにそうなっているんだけどなぁと、つまらない思いをしている私であります。