古木

時々出会いたくなる、それが古木。樹齢千年の迫力は半端ない。地域神社の伝承に過ぎないから本当にそうなのかどうかは分からないけれど、土地の伝承と言うのはそれなりの正しさを持っていて、地域の誇りとなって守られた古木は、その土地そのものを見守って、そして見守られて千年の命を繋いできた。それを目の前にすると、ただただ首が垂れる。そして触れて、千年の間にそこに集った方々の祈りを感じることが出来る。精一杯生きること。時代時代にそれを思った人々の願いが、土地の古木に宿っていて、それを感じることが出来る。 

愛知県には沢山の古木・巨木があって、それを巡るのが、何というか、愚痴を聴いて頂けるというか、そう、たった一人、頼りになるというか。動かないんだけどね。そんな気がするのですよ。千年の歴史にはかなわないなって。そりゃぁそうだって。そこにじっと千年も居るんだよ。どんなに頑張っても十数分の集中力で途切れる人間に対して、じっとそこに、千年以上の忍耐をもって、旱魃で喉を乾かせ続け、豪雪で心も凍るような重荷にも耐え、そして今も凛としている。かないませんよ。

街全体がその巨木に見守られ、そして守っている。守り守られ。20年前に一度行ったきり、日曜の午後に突然、会いに行きたくなってステアリングを握って1時間。20℃を越える気温の中、窓を開ければ黄砂とスギ花粉が吹き込んで、曇った空気感の中、愛知県の中をうろつきまわる。海際の巨木と何か違う雰囲気なんですよ。寒さに耐えて、何というか、地味な雰囲気があって、古木、かくあるべしというか。街並みも旧街道が一本通っているだけで、開発と言う雰囲気は微塵も無い。しかし、暗い雰囲気はない。

今年は2月が特に寒く、今、梅がどこもかしこも綺麗ですね。移植されて増えている河津桜も満開に近く、梅と河津桜の共演で、山道の楽しい事。都会の作られた公園では無く、必然的に出来た里山の整然とした生活感が美しい。野草のすみれもいよいよ咲きだして、足元に気を付けながら歩むのはとても楽しい。時には命の洗濯も良かろう。これくらいは許されるのではないか。そんな休日を過ごさせて頂いた。感謝である。