学ぶという事

学ぶ機会は何処にでもある。学びたいと思えば、きっかけ的にはネットや本屋さんにあるでしょうし、もっと挑戦したいという事であれば、大学のリカレント・リスキリング講座を受講するのも良い。大切なのだ、誰かに教えてもらおうということではなくて、自らが学ぶ意欲を持って、貪欲に吸収し、それを自らの力として、学んだ者がその知恵を構成に焼成して頂ければ宜しい。

教えは何処にでもあると思う。山間部のそれこそ過疎の村に、山桃が植えられて、捨てられた畑にも実らない桃が植えられている様は、やや異様に感じた。しかし、その里の方は、心が満たされるのだと仰る。これこそ学ばせて頂いたという事だ。これが学びである。パンフレットなどでは計り知れない学びがそこにあるのだ。突風に目を塞ぐか、風車の如く、誰かの為に働くか。

学ぶことを喜びと出来る者の心は美しい。喜びが一人称で無いのであればということだが。多く、一人称になってしまうのだ。得た知恵を誰に対しても活用しないで、自己満足で終えるのであれば、お越しいただきたくない。そのまま何処かに行って頂きたい。一方で、三人称の学びを求めるのであればどうぞどうぞ。何なりと問うが良い。これも大切で、口を開けて待っている。学ぶマニュアルが欲しいと言う。そんな輩も御免被る。

人と人との繋がりは、学びがある。本当にそうである。その学びを何とかして他の方に、自らの色を乗せてお届けしたい。色は要らないよと言う人も御免被る。勝手にネットで学んだふりをしていれば宜しい。偽情報に踊らされて、自己満足するのが宜しい。学びとは自らの貴重な時間を費やすだけと思っている方がいるが、それは大間違いだ。語らされる者の時間も考える必要がある。学びを送り届ける方も共に学ぶ。だから人と人とが学び合うと言う。美しい行為だ。