人あってこそ

人への投資が世界から見て極めて少ないという我が国。人件費はコストだから削減するべきであるという、人が知恵を生み出して、それで経済が動いていくという意識が無いと、人は要らないということになる。経済が回るということを度外視したとしても、自らは何等か、他の人に影響を与えることで生きている意味があるのだと、少々哲学的な意味合いくらいは感じていないと、AI隆盛の昨今、本当に要らない人になってしまう。

現代の高等教育という雑誌があるのだが、その中に、『近い将来、大学職員は分化していくだろう。経営企画など重要な仕事を担う職員と、各業務に精通した専門職員と、ルーティンワークに安住しAIに取って代わられていく職員とに』とあり、思わず、我が意を得たりと膝を叩いた。その通りである。そしてこれは何も、大学職員に限った事では無く、我が国の有り様にも関わってくることだ。

戦後、3K職場があって、そこからホワイトカラーという職が生まれ、大規模商社が世界を駆け回り、現場では半導体産業で24時間働く人達が居て。そこでおごり高ぶって、結局、今がある。自虐とは言わないが、言われるまでも無く突き進むことが当たり前だった。大学の研究室でも72に時間ぶっとおしで装置と戯れて、ちょっと仮眠して、また72時間研究してなんてのが当たり前だった。週2日制とか言っちゃってね。教員も学生もそれが当たり前だった。3時にやけ酒を吞んでいると、助教授先生が「俺も混ぜてくれよ~」と、差し入れをして頂いたのが懐かしい。

人件費は経営的にはコストである。ただ、コストと言うと、経営を圧迫する負のリスクに感じがちだが、経営に正の作用を生む生産者と判断するのが正しい。きちんと人事的手続きを経て入社して頂いた方を適切に育て、そして活躍して頂く。人的雇用費用は確かに大きい。しかしながら、それを上回る組織力を発揮できるように、ミドルは体制強化に努めなければならないのだ。この国の教育や研究の考え方は負のコストだけである。いつになったら滅亡から立ち上がるのか。意識改革からだが、遠そうだ。