最初に磨製石器を創った人はどんな人だったのだろう?それを創ってリーダーとなったのか、リーダーにせっつかれて何が何でもの気持ちで創ったのか。それは最早知る由もないのだが、どんな時代にも行けて誰に何を聞きたいかと言われたら、何故石器を思いついたんですかと聞いてみたい。割るだけではない。偶然の産物でもない。何らかの目的で、そしてその行為がどのような結論をもたらすのか、考えていたに違いないのだ。
何処にも教師など居ない。正に、自然そのものが教育者であり、そこから閃いて自らの手で形作ったのだ。偉大なる行為である。教育とはすべからくそうあるべきである。こう成し遂げたいと思った時、その最適任者が居るのであればその方にお願いしてみようではないか。しかし、どうも、官僚となるとそうもいかないらしい。政治家にたてつくと永遠につつかれる世の中は住みにくい。
智に働けば角が立つと仰ったのは漱石先生だが、石で口を漱ぐという漱石という名も相当に社会を斜めに見ていらっしゃる。性善説で真っすぐに前を向く人と、性悪説で斜めに見る人と両方が必要だ。簡明直裁に生きてみたいが、世の中はそうはいかない。人の数だけ思いがあるから想いは通じないと考えた方が宜しい。しかし、通じないから諦めるのも馬鹿馬鹿しい。諦めるなら考えなければ宜しい。何か決断したのなら実行すればよろしい。他者の批判など無視すれば良い。
今も稲穂を刈り取る程に鋭利な磨製石器。黒曜石の打製石器に負けず劣らず、人の細工は物凄い。その目的を見出した感性も素晴らしい。我々はその遺伝子を受け継いでいるのだ。自らの手で何かを生み出す。それこそがネオジャパネスク。一歩進まねばならぬ。今日はそうしよう。