遥かなる人財育成

人材育成って単語は恐ろしくて、そこかしこにちりばめられるのだ。まぁ、大学なんてところは人材育成の場であることは間違いなのだが、その組織に当たっては、本社の御威光というか御意向というか、強烈に入って来て、それが認められたとしても、随時、「なにやっとんじゃぁ」とお目付けが入ってくるわけだ。それは当然と言えば当然で、世界が猛烈な勢いで動いているのだから、それを先取りするようなことをやっていますかとか、政治家諸氏の朝令暮改にも追従していかないといけないわけでこれはこれでえらいこっちゃなんですな。

勿論、真面目に大学のビジョン、戦略に則って戦術を立てその通りに進むのだけれど、それはスタート時点に定めたものであるから、アジャイル的に生きた組織と言う事にしようとするならば、がちがちに固めた「こう決めたのだからこれをやるのだ」なんて石頭では社会の要請にお応えできない。例えば、技術オリエンテッドで中途採用を80%にしますと企業が仰ったとしても、それに打ち勝つような教育をしていますから就職枠を持ってくださいと言えるか。そんなところにも大きな影響が出てくる。高校生もそんなところを見て、自分に力を付けてくれる大学か考えるのが良い。

企業がリカレント・リスキリングに送り込みたい大学かどうかも重要である。社会貢献と人材育成の合体業であるわけだが、企業人が大学4年生よりも時間にルーズで知恵が浅いなんて人をリカレントに送り込んで来たとすると、そのお会社に就職しようとする者は居なくなるでしょうね。良い面ばかりが強調されるリカレントなんだけど、小生的にはもろ刃の刃だと思っている。勿論、企業に戻られて力を発揮できないようなことになれば、もうその大学には社会的価値は無いとレッテルを貼られておしまいということでしょうな。

要求するのは簡単なんだけど、それに応えていく組織側としては、評価指標も含めてその検討は極めて大変。こんな教育プログラムがありますと、回転すしのメニューみたいなものを並べても、周回遅れのネタで乾いているとかね。生きている社会に対して決め打ちをしてどうするのかとは思うのだが、決め打ちをしないと、その時の設置基準を満たさない。満たしていても、それは認められた瞬間に過去になる。人財育成、100年の計として取り組まねばならぬ。そう思う。