店頭

「店頭」という表現がある。駄菓子屋の軒下などは、正に店頭だったのだろう。いや、その前の店頭体験と言えば、おふくろに手を引かれて行った「豆腐屋」と「何でも売っている屋」だったような気がする。豆腐屋さんは角にあったので、側面の勝手口に並んで、大きな桶に、湯気の立つおからが並んでいた。おからを集める業者があるのだと聞いたことを覚えている。あれが卯の花に化けるのは後で知った。何でも売っている屋の店頭には「たまご」が積まれていた。1960年代である。レジスタなど無く、竹かごが吊るされて、そこで銭のやり取りをしていた。

店頭なんてものを思い出したのは、今、携帯が店頭になっているなと思ったのだが、その店頭しか知らない若者にとって、その昔のイメージで語り掛けても伝わる筈は無い。70歳を越える政治家諸氏が「若者よ!」なぁんて叫んでも伝わらないわなぁ。ワンルームのアパートでゴーグル掛けてゲームに没頭し、アバターで集会に出る。ウーバーイーツで食事を済まし、冷蔵庫も持たない生活を送る。小生などは憧れてしまいますけどね、いや、冷蔵庫が無いというところだけですけど。あんな電気食いで場所食いのものなど無用の長物である。あんなモノが無くても生活できる環境が必要なのだと思っている。

記憶の彼方ではあるのだが、小生の父親の代は50~55歳で定年であった。そんなに大昔では無い。今ではそれが「死ぬまで現役」と叫ばれている。叫んでくれるのは良いのだが、同じ空間で生きている20歳よりお若い人達にとって、そんな国はどのように写るのだろう。80歳以上の方が元気に闊歩されているのは「凄い!」と感激するのだが、それは今の自分がへたばってきているからだなと思ったりもする。毎日、全力で過労困憊になるまで頭と体を使っていたら、50歳定年であるべきだと真剣に思うぞ。それがそこはターニングポイントでしかない。

店先とか店頭とか、それがポケットに入っている。運送業さん達のラストワンマイルの空振りを防ぐツールもスマホ経由だ。いつでもどこでもコネクテッドで、繋がらない機器があるとジェネレーションギャップを感じてしまう。普通のマーケットに行くとモノが目の前に並んでいてホッとはするのだが、そこには生産者等の情報まで記載されて、いつの間にか決まった生産者の産品を選んでいる自分がいる。主体と能動の境界線は何処にあるのか。円安の記事を見ていて、ふと思った。