抽象的に新たな学びを提供すると言っても、それは決してお金にならない。まぁ、Outcomesが見えないのだから、未来に頑張るという気合に投資してくれる者は居ないのだから仕方がない。それではと、何が具体的なことを考えるわけだが、そうなると、それが本当にできるということを、エビデンスベースで説明をしなければならない。ただ、これは、説明できてしまったとすると、それはできるのであるから、本来は投資対象にはならないわけだ。しかし、この国では、できると分かっていることにしか、挑戦的お金が降りてこない。もうその時点で滅んでいる国と言うことだ。
我が国にはオリジナルの商品が殆ど無いと言われているわけだが、お湯を掛けて待っているだけで食べられるラーメンにおいては、そのゴールまで到達したという点においてオリジナルと言っても良いのかもしれないが、乾麺はずっと昔からあるしね。これにケチをつけると怒られることになっているから、この程度にしておいて、出来ると分かっていることをやり続けるとどうなるかということだ。自動車も内燃機関として存在したものを見て、作り始めたわけだから、それは出来ると分かっていて、要素技術の開発にお金を出してはいない。
要素技術開発にお金を掛けないということは、まねるものが無いとモノづくりをしないということだ。半導体は日本が強かったと言われているが、それは要素技術をまねることが出来たから、そこにかかる莫大な研究費用を使わずに、応用事例で上前をはねただけのこと。だから困難性を伴う微細化とかね、直ぐにギブアップして他国の機械を買えばよい、更には作られたものを買えばよいということになる。誰かが図面を書いてくれて、それを形にしたらお金をもらえる仕組みにおいて、新規開発の機運など高まるはずがない。
何かを作ろうとして治具を作れる人は素晴らしい。一体、どうやったらそんな発想に至るのだというものを拝見すると感動する。こうやれば出来るではなく、どうやったら出来るのだろうと勇気をもって失敗することが出来ないと、それは実現しない。それが求められる形では無くて、こんな素晴らしい世の中になるべきだというビジョンの元、それを達成するものづくりが出来ないといけないわけだが、装置があってボタンが無いと研究が出来ない人を量産しているようでは駄目だろうね。なんとかしたいものだ。