根性論

「根性」という単語を聞いたり見たりしなくなった。小生としては毎日使わせて頂いているのだが、他の人やTVなどで聞くことはまず無い。熱心とかコスパだとか、何というか、根性とは対極の単語に溢れている。AIの導入が当たり前のはずだが、電子ツールの導入で「根性」を発揮する必要が無いところが多く出てきたが、「必ずやり遂げる」とかね、根性発揮以外の何物でもない領域はあって良いと思うのだ。思ったように行かなかったとしても、根性むき出しでやっていると、それが知恵となってくるのだ。

同様に「必死」という単語もご同輩である。「必死になって根性出せ!」なんて言おうものならハラスメント大賞まっしぐらの世の中だ。間違っているとは言わないが、何か物足りないのだ。興味本位で始めてみたけれど、やっぱり辞めたいなとなった時、そんな時だけは必死に言い訳を探して「無かったことに」と言ってくる。付き合いの中で見えてくるのは、そう言うお方は「辞め癖」というか「逃げ癖」というかそんなものがしっかりと身についていらっしゃる。長く生き過ぎてきたので、そんな厭らしさが解るようになってしまった。

最近では「心が折れる」という言葉を多く耳にし目にする。折れる気持ちはわかる。小生もこう見えても散々折れて血反吐を吐いて、頭の中が真っ白になってという経験が多々ある。本当に多々ある。あるのだが、何故だか立ち上がってしまうのは、そのように育てられたからなのだなと、振り返って思う。今となっては逃げたくても逃げるところは無いし、ぶれようにもぶれて新しい道を探す時間も残っていないから、ぶれずに逃げずにいられるということはある。自分でも不思議になる。歯を喰いしばり血を滲ませて歩いてきたが、それが必死になって根性出したということだったのかもしれない。

「心が折れました、辞めます」という根本には「面倒に感じたら何時でも辞められる」という経験の積み重ねがあるからなのだろう。これは外力によってなんともなるものではない。逃げ出さない人には反省がありリスペクトがある。そんな人は泣きながら歯を喰いしばり、本当に地味に進み派手に戻り、倒れて血を吐き、そして這ってでも進んでくる。迫力がある。尊敬する。そんな人との協業は素晴らしいし、人生の一瞬の中で共に生きることが出来、そして接点を持てたことを天に感謝する。そんな気持ちになる。必死になって根性出した結果に得たものはそれだったのだろう。そう思う。