昨日の続きになってしまうのですが、根性、必死と、小生がしょっちゅう思っている言葉に「執念」がありますな。何が何でもやり遂げるのだという執念。それを最近、政治の世界でもほぼほぼ感じないのですよ。なんか直ぐに言い訳が始まって、耳に痛いことがあると「辞めます」となってしまう。根性とか必死という言葉はどちらかと言うと「パルス」的で時間的に集中しているイメージで、執念と言うと継続して発揮し続ける精神状態ということかなと勝手に定義している。
米国の中間選挙を見るにつけ、執念の凄さを感じるわけだ。執念だけでは無くて解り易さもある。財政が厳しいから増税すると言うと、そう言わない方向に投票が動く。これが日本との違いだね。増税しないと言って票を集めて、選挙が終わると増税する。加えて国債を無制限に発行して金をばらまく。借金は「お次の方へどうぞ」と先送りする。国民が貯金しているんだから、金があるからそれで良いのだという不思議な議論がずっと続いている国よりは、解り易い政治の方が良いかもしれない。勿論、一人の執念で世界がガタガタすることには反対である。
ロシアにおいても同様で、執念が生んだ殺戮と阿鼻叫喚と言っても良かろう。ついでにミサイルの飛行と爆発と火災で、どれだけ地球温暖化を進めたのだろう。自然エネルギーで稼いだCO2を遥かにしのぐ量を延々とまき散らす様に、国連も何も出来ない。執念とはこれ程に強く無いといけないなと、自らの執念はまだ甘いのではと、より気合を入れないといけないなと思ったりもする。どうも日本人にはこの執念が欠けてきているのではないかと思っている。
結局のところ、何かが形になった時、それは何らかの執念が実ったということではなかろうか。ただ、実ったからそれで終わりと言うのでは、執念が足りない。終わりがないから執念なのだ。そこが根性や必死と大きく異なるのだ。世界は変化し続ける。だから「これでおしまい」というゴールは無いのだ。ゴールが無いのに走りつづけろと言うと、ハラスメント認定されるが、本当はそうなのだ。そのレースに立たされている以上、延々と思考し、企画を立て、進み続けるしかないのだ。流行らない生き方だが、それしか出来ないからそうするだけだ。執念、良い言葉だ。