共有

ネットワークは便利だなと思っていると、在宅ワークの共有をしたと思ったら、職場に届いていないとか、油断をすると痛い目に合う。これなどは、自らにとって価値がある行動をしただけであって、客観的な価値を生み出していないことになる。それどころか、組織に遅延と言う致命的な迷惑をもたらす結果が帰ってきてしまって、価値どころか不具合の提供となっているわけだ。デジタルスキルが低いと言われればその通りなのだが、画面上では「出来ました」と言われれば油断しても仕方が無いように思う。

思い込みって恐ろしくて、情報を共有できたと思っていたら出来ていないという状況に陥ると、特に、もう時間が無いよなんてことになってしまうとリアルに困る。ネットワークのお作法がなっていないということを心の棚にしまいたくなるのだが、それは単にルール違反だから、残った時間でなんとかするしかない。相手の有る事だし、もう切羽詰まってくるわけだ。いや、もう崖っぷちである。残り時間20分みたいなところで漸く共有すると「この内容は下の下であって、理解不能です、存在悪です」という冷笑が飛んでくる。

土日無く、昼夜無く書類と格闘していても、一瞬の気の緩みがもたらす冷淡な現実であり、これが人の世なのだなと思ったりする。どんなにこちらが想いを抱いていても、お仕事の相手はそれを受け取るのでは無く、単に結果だけを要求しているのだなと解る。そこにはか冷却水が流れる大河が横たわる。僅かな刺激を与えれば瞬時に凍り付く魔物である。人と人とのお付き合いは、所詮、そんなものだと思っていれば宜しい。いや、そう思っているべきだ。

風は時が経てばいつの間にか流れて行って消え去るのだが、受け止めた憎しみは永遠に心に刺さり続ける。翻れば、他者へも同様の行動をしているのではないかと、生きていることを反省しなければならぬ、いや、後悔せねばならぬ。世のため人の為などと言いながら、一人の人からの冷淡な言葉にうろたえているようでは、まだまだだなと感じる。しかし、まだまだだから先がまだあるのだなと安心もする。なかなかにして達人の域に達することはできないなと、たかだかネットワークの共有がうまくいかなかっただけでがっくりきている私であります。