集中して取り組めることというのは、まぁ、嫌いでは無く、自分としてはどうでも良いと思っていたりするのかもしれないが、他人から見ると、それをすることが好きなのだろうなということなのだろう。理系とか文系とか、そんな分け方で進路が決まってしまう現状だが、なんでその進路を選択したのかと中学校時代を振り返っても「そっちで良いや」くらいだったとしか思い出せない。当時から歴史や文学を学ぶことは極めて楽しい事と思っていたにも関わらずだ。
もう一歩、無理やり踏み込んで記憶をたどってみると、国語のY先生が嫌いだったとか、生物関係の単元を倣ったU先生が嫌いだったとか、どっちかと言うと、好きと言うよりも嫌いが先行し、そっち方面から離れて行った気がする。無責任な政治家が「答えの無い問題に果敢に挑むことが出来る地頭を持った学生を育てろ」なんて言い出しているわけだが、自分達があたかもそれが出来るかの如くの言いようなのだが、そんなことが出来れば苦労はしない。
所謂工科系と言ったって、分野の壁は高く、しかし、それを乗り越えて分野融合的テーマを構築しろと言う。これは正しい方向性だとは思うが、最初は分野連携というところだろう。文理融合などとも言われるが、これも文理連携からなのだとは思う。思うのだが、理系人と言われる人種においても、研究を文学的ストーリーで描く人も居れば、文人においてもシステム思考で攻めてくる方もいらっしゃる。要は理系も文系もそんなものは無いのだろうということだ。どちらかが嫌いだからもう一方に居るみたいな者では無かろうか。
デジタル人材云々のお話になると、文系だから解らないといきなり言う方が多いわけだが、言語をSVCだの文型分類をこなし、苦も無く難解な文章を読解できる力は、アナログのDX実践に他ならない。人間の脳内構造など、一部の天才を覘いては同じようなものなのだから、型式分類など意味を成すまい。これがダイバーシティの原理原則である。所詮、これから始まる入試の有り様が旧態依然出逢って、卒業生を活用していく企業の思考はさらに旧態依然ということだ。教育が全てである。次世代を意識して改革に挑まねばならぬ。