碩学

講義が始まった。この講義は職業としての学問の象徴であると、教育学の中で学んだ。受ける側が職業の対象であり、生産物は生き物という、今、考えれば恐れ多いのだが、学生の頃はひたすらに学んだだけである。その学びの貯金を今になって漸く引き出し始めている、そんなところだ。無垢の心に一滴の雫を浸透させる、それが講義である。そして授業である。

講義は出来ても授業は出来ない。成る程、漸く判り始めてきた。一方的にしゃべりまくるか、聞き手に理解という境地まで到達させるのか。これは極めて難しい。寄り添うというわけでは無い。その考えではやる気の無い99%に照準を合わせることになってしまう。そうではない。やる気がみなぎり誰もがトップと認める努力家にこそ照準を合わせるべきだ。それ故に全員の質的向上が図られる。それが授業である。

多くが寝ている。昼休み後の科目と言うこともあるが、大学に対する不信感の表れでもあろう。どうせそこに居たとしても全く持って無駄であったと感じているならば、何を論じても聞く耳は無かろう。いや、そうであったとしてもぐんと杭を飲んだ如くに伸びる背筋を提供しなければならない。そうなっていないのであれば、語り手に落ち度がある。

いずれマスプロ教育は無くなるのではないか?いや、集団で効率が高くなる一次産業分野においてはそれは必須なのだが、ものづくり産業などでは通信教育だけになってしまうかもしれないと思う。ほんの数人が大学に通い、学理を探求し突き抜ける。その二分化が始まっているのではないか?威風堂々と寝込む人間を前にして残念な思いである。碩学。美しき言葉である。