暴力に想う

先の首相襲撃の時にあからさまになった政治と宗教との関係だが、マスコミは沈黙し、選挙においても何の話題も出てくることは無く、与党が勝ち進み、国民はそれら全てを認めてしまう。この国の在り方だ。再び、暴力が国のトップに襲い掛かったが、どんな理由があったにせよ、暴力は許されない。誤った国政のかじ取り役であったとしても、それは国民の選択であり、国民の平等な思考に対する暴力である。思考停止は人間であることの放棄である。

自分に照らし合わせてみると、気が付くと通信簿というランキング表に振り回され、運動部では自己記録では無く他者に勝つことを求められ、高校、大学と入試と言う「落とす」為のゲートを潜り抜け、思考の在り方を教わることなく知識の詰め込み競争に追い込まれた。得た知識を知恵にする思考の手法こそ学ぶことの本質なのだがその本質は自ら気付き、自ら磨く必要があるのがこの国の教育体系だ。答えが決まっているなぞなぞを与えられ、答えがゴールであると教え込まれた。自ら受け入れられない者は暴力で排除する生き方となる。

無我の時代はどうすれば生きられるかを本能でかぎ分けて、段々と自我に目覚めながら競争と言うレールに乗せられる。人が人の為に生き続けることで、お互いを活かし続けられることも学ぶことなく、自我に反する方便に向かって暴力を持って相対する。鉄砲だったり爆弾だったり。知恵によって討論し、お互いが納得するという人間が有する技を用いることなく、知能無き暴力で決着を図ろうとする。

何時から人は思考の手法を学ぶことを放棄してしまうのか。無我で生まれ、命を繋いでいる間に、生きる方法を取捨選択から経験として身に着け、他の者を尊敬することでお互いが生き合うことが出来る思考を獲得する。信じあうことから知恵の融合が生まれるわけだが、思考無き安易な借金で民を路頭に打ち捨てていこうとする為政者に向かっているとせよ、やはり暴力はいかん。知恵の融合こそ人の進む道を決めるはずである。疑う前に信じること。そんな当たり前の日を生きてみたいものだと。そう思う。