ゴールは見えているか?

そこそこ長く生きていると、なんとなくだがゴールが見える。何時縊死するとか、そんな終末を意味するのではなくて、お仕事において、こんなところが75点かなということが感覚として感じられるということだ。どこかに出掛けようという時に、今日、戻って部屋に入る時にはこんなイメージを持っているだろうとかね。こんな旅のルートにすると面白いとかね、そんなことをふと思いついて、行動できるようになってくる。

お仕事の場合においての75点と言うのは重要で、残りの25点分は75点を獲得する上で獲得した知恵を使って、更に継続していくうえで必要である。75点で満足するということではない。そもそも今の時代に終わる仕事など無いのだ。勘違いをしてはいけないのだが、多くの人は本来、AI等が自動でやってくれる筈の作業に時間を掛けているだけで、小生から見たらお仕事に時間を費やしているとは見えないのだ。どうやって自動化するかを考えるのはお仕事であり、100%のゴール結果が見えているものはお仕事では無いのだ。

常に終わりが無く、完成しないから疲れるのだ。永遠に終わらない、賽の河原の石積のように目的もなく続けることに疲労は無かろう。目的が延々と高まっていくからこそ疲れるのだ。自らの能力の無さに疲れるのだ。どうすれば良いか?簡単なことである。努力をすることだ。その努力をどのように成すかを考えることだ。独りで考えられないのであれば助けを呼べばよい。二人で駄目なら三人でというように、文殊の知恵に縋るのが良い。

ただし、ゴールを持たずに問いかけるのは許されない。それは単なる時間泥棒である。人に依頼をしておいて、それは受けられませんと言われると、だったら誰に聞けばよいのか教えろとか、代役を見つけろとかね、そうなってくるともう暴力である。そんな方々に責め立てられて辟易している。虎の威と呼べるほどの組織力で襲ってくるのだが、駄目なものは駄目である。そんなこともそこそこ長く生きてくると言えるようになるものだ。何時かは立ち止まるのであろうが、それは少し先のようだ。もう少しでGWである。気合が入る。