多文化は?

コロナ禍が忘れ去られ、普通の生活が戻ってきたようで、面談要望が一気に増加した。新聞によれば、新人の経験値を上げるのは対面活動が重要だから、テレワークは無くしてリアル出社のみに切り替えた企業がかなりあるそうだ。何とナンセンスな。折角の世界の方々との交流をリアルタイムで可能とするテレワークのお作法を高めるのでは無く、旧人類の旧態依然の浪花節を若者に押し付けようとする厚顔無恥。これが日本流なのだろう。「滅びるね」と明治の時代に語った漱石の慧眼である。

石炭火力にアンモニアを混ぜて混焼させCO2排出削減を目指す技術開発を、CO2を継続して排出する技術の延命と切り捨てる海外の主張は美しい。本気かどうかということだろう。今を極端に変更するとパニックになるということだろうが、石原都知事が「現状の煤煙をまき散らすディーゼル車は東京を走らせない」とか「エネルギーばっかり食う信号機はLEDに換えろ」と言って、社会の方向性ががらっと変わった時が懐かしい。「滅びる」方向に日本は進むのが好きらしい。

変わる時は劇的な時に限るわけだ。明治維新などは変化の内には入らない。真の黒船がやってきた先の大戦後ということなのだろうけれど、それでも本質は変わっていないのではと思っている。政府はスタートアップ&ベンチャーを乱立させたいなどと口では言っているが、本気で無さそうだなと言うのは規制で世の中を縛り付けている状況から明かだ。コロナ禍をインフルエンザと同列にします程度の事は言うが、来月からガソリンエンジン車は走行を認めませんくらいのことを言い出すと、世の中は変わる。

国の主たる外貨獲得商材にちょっかいを出せるのは政治だけだ。カーボンニュートラル云々が正しいのかそうでは無いのかを判断するのは一世紀以上の後の人々だろう。今すぐ何かをと言っても、戦争を始める愚かな為政者がいるような生命体を護る必要などないという考え方があっても良かろう。若い世代が挑戦し続けられる社会になって欲しいと思うのだが、老人も頑張らねばならぬ。若者とは異なる文化の所有者である。多文化共生が老若の間に生まれ無ければ次は無かろう。そう思う。