ライフとライス

昨年からライスワークとライフワークという言葉が極めて身の回りで飛び交い始めた。それ以来、これはライフかライスかという思考が働くようになってきた。小生などは仕事中毒と言う事では無く、やらないと終わらないからということで、本社対応等、週7日制で動いているわけだが、能力が高い人はそんなことはしないのだろうなと羨ましく思ったりもする。新しいことをやりはじめると、前例が無いわけで、全てが思考の対象になる。これを職場の職務の為だからとライスワークと思えないところが悩みどころだ。

それをライスワークとライフと切り分けられる人は幸せなんだろうなと、羨ましく思う。こちら側が気分を害そうが腹を立てようが、ライスワーク人間には何も響かないから、最近では悟りが開けて無視するようになってきた。価値観が異なるわけだからね。期待するよりも自らの身を削った方がずっと精神衛生上健やかである。それにライフワークに取り掛かっている時は、雑念など起こり様がないからね。自らのライフワークに打ち込んでいることが一番の幸せと思うしかない。

G7会合などを拝見していると、とんでもない密度のワークをこなす方々が集まって、世界に対して責任ある発言をしている様に畏怖の念が湧いてくる。これをライフワークとしてやっているのかと聴いてみたくもなる。それを鏡とすると、自らのちっぽけさが情けなくなるのだ。もっと気合をいれてライフワークに取り掛からねばと思うのだ。ライフワークとしか感じない毎日で、ライスを食べられるのだから、それは幸せと考えるべきだろう。

石の上にも三年が出来ない人は、ライフワークを持てない人だと、某所のお坊様に説教を頂いたことがある。そんなもんかなと何気なく聞いていたが、今、成る程なと分かるようになってきた。歯を食いしばって耐え抜き続ける者の素晴らしさである。心から自然とエールが出てくる。自らにもエールを飛ばしてみたいものだが、まだまだ苦行が足りぬ。苦行をライフワークとするのだが、何時までもつことやら。残り僅かな時であろう。そう悟って頑張るのみだ。