物書きが商売では無いが、テキストエディタ程大切なツールは無い。ワードや一太郎などのツールは、そのまま出版するわけでもないのに、お作法にうるさく、結局のところ、印刷してみても見栄えが悪い事この上ない。電子ブックツールなどはその点、画面で見るにはそこそこ良いものが出来るのだが、日本語のキャラクターにマッチしたツールが皆無なことから、使っては見たものの、使いこなすところまで追い込めなかった。
理由は簡単で、キンドルなどのツールの活用者が極めて少ないから。地下鉄でキンドルを使っている人を見ると感動するね。「おたくおじさん!貴方もこっちの世界の人なのですね!」と妙に懐かしく感じてしまったりするが、結局、おたくの戯言であって、マジョリティには何故かなれない。エキスパンドブック出版から始まった電子本作成なのだが、epubに馴染もうとするのだけれど、読み手が精々PDFな人達だから、そっちの世界に倣うしかない。
まぁ、他律と言えばそうなんだけどね。誰に合わせるかと言えば、使い手であって、自分ではない。「それ誰がどうなるの?」と聞いてみても良いが、千人も発表する学会のコミッティーが居るんだとふんぞり返られるが、千人でしょ?と言いたいところをぐっとこらえるわけだ。と、こんな駄文を入力しているのは随分と古いテキストエディタだ。その昔、EmacsやmuleをUnix上で動かして喜んでいたのだが、テキストガラパゴスから抜け出せずにずっときている。
pomeraが登場した時に直ぐに飛びついて、その進化に付き合って久しいが、Realforceのキーボードに慣れている指が、なかなか馴染んでくれないわけだが、これも道具の一つだと思えば何とかなる。何とかなるレベルなら使い続けらるわけだ。ChatGPTからコピペをしているわけでは無いので、文章入力ツールはインタフェースからエディタまで、一心同体となって、思考がそのまま文章となって現れるのだから、それなりの道具でなければならない。道具は大切。身の回りの道具の残骸は、挑戦そして旅立ちの連続を表現している。いつまで続くのか?定かでない。