旅に想う

コロナ禍が明けたなと思う事に、同僚が世界を股にかけ始めたり、こうやって高知に出てきてみたり。様々な交流が再開し始めたなと実感するのである。現在、重要文化財と言われている高知城だが、このまま頑張っていけば国宝にシフトするのだろうし、今でも国宝だなと思うのだが、いじっぱりの文化庁が、お前んとこは文化財だねって、そんな感じの認定なのだろう。何度拝見しても国宝だろうなと思う次第だ。

台風が接近してきて、梅雨全然が真上にあって、積極的に雨を提供してくれるわけだが、雨が嫌いなわけではない。幸いなことに、極端な揺れを被らなかった「往路」であったが、明日の「復路」の安全が約束されたわけではない。空路は恐ろしい。恐ろしいが、人間が獲得出来ている特別な状況であるのは間違いない。なにしろ、地に足が着いていないのだ。愉快なことだが恐ろしいことでもある。自転車で言うならブレーキで車輪が止まっても、車輪が浮いていると言うことだ。

そんなに真剣に悩むことではなかろう。どんなに嵐になろうとも、いや、嵐であるが故に、どうやって生きていこうか、その土地の人々は考えるのだ。暴君がダムを破壊しようとも、民は真のリーダーを想い正しい道は何かを考え、そして生きていく。どんどん、年を重ねていくわけだが、残りが短くなるというよりも、もっとこんなことがあると愉快だと思う自分を面白がっている。飛行機は特にそれを感じさせてくれる。特別感がある。

文科省のお話をお伺いするたびに思う。こんなに国民が減ったのだから、2県に一校、いや、3県に一校にしてよという税金的な叫び声がわからないでもない。一方で、何度も言うが、減ったからこそ、教育が大切だよと。この「教育が大切だよ」ということに応えられているのか?何万年も繰り返しの授業をやっていないか?初等教育から大学まで、変化しなさ過ぎだ。圧倒的に進化するべきなのだが、それに教育者と呼ばれる立場の民が追いつかない。変わらねばならぬ。それを学ぶためにここに来た。そう思う。