刃物屋さん

刃物屋さんとお付き合いをさせて頂いて、強烈に感じるのが「刃物屋さんの努力は、そのユーザーに全く評価されない」ということ。中間に入っている厭らしい連中が上前を撥ねることはあるのだが、刃物ユーザーからは文句しか跳ね返ってこない。もっと長持ちさせろという言葉しか返ってこない。当たり前なのだけれど、ユーザーは刃物交換の仕掛回数を減らして、Tier上位に納品する最終形状物の価格同一、工賃低下を目指すだけだから。

「ばり」が出ないとかね、工程を減らす工夫をしたとしても、そんなことは上位企業には評価されないから、結局、刃物屋さんをいじめることになる。これで良いのか?モノづくりはこれで本当に良いのか?弘法筆を選ばずとは、目の前に並んだ筆が当代随一の筆ばっかりだから、目の前でささっとしたためるその美しき文字が、どんな筆でもそれを成し遂げるかの如くに思ってしまうのだが、弘法さんほど、筆の目利きは居なかったそうな。道具を大切にする考え方がここにあるだろう。

弘法さんに使って頂ければ筆屋さんは喜ぶだろうが、その分、名声を得て、その工房の筆は高価になり、その技術を落とすことなく、高めることに向かったであろう。刃物屋さんも同様であって、より切れてより長持ちする方向に向かうわけだが、それは「切られるワークが市場で活用される時に、例えば、車軸が折れない」だとか、当たり前の安全を届けたいからだ。加工屋さんの喜びが、ワーク一個当たりの利益の向上にしか無いことを望んでいるわけでは無いのだ。

ヘアサロンの皆様は、より高価な鋏を求めるという。勿論、駆け出しからそんなことはないのだが、より切れる刃物を手にすると、もう後には戻れない。それで技術が高まると更に良い刃物を求めていく。それによって刃物屋さんの技能も高まり、刃物の材料や砥石も進化していく。モノづくりの輪廻とはそいう言うものだろう。中国に出掛けて行って「身の丈を知れ」と叱責された政治家がいるが、我が国の力はそこまで地に堕ちているということだ。一つ一つ、丁寧なモノづくりは、人づくりからである。それを願うばかりである。