寝すぎ

夢を見過ぎると代償が大きくなる。だから夢なんだけどね。こう在りたいという夢は大きいほど良い。それは大き過ぎることは無い。ただ、夢を見る時間が長くなればなるほど、良からぬことが頭に浮かんでくる。もしもこうだったらとかまでは良い。恐ろしいのは、夢が実現しないことを誰かがそれを阻んでいるのだ、足を引っ張られているのだと、被害意識が大きく育って、敵対心を膨らませてしまう。そうなると人は現実に戻れなくなる。

身の回りのそんな人達を見てきたわけだが、まぁ、末路はいつも悲惨である。ご当人はそうは感じられないのかもしれないけれど、攻撃された側からそれを見ていると、攻撃してくる側が悲惨に見える。なんでそんなことになったのかなと。世界ではミサイルの飛ばし合いで、何の罪もない、最も守られなければならない病院が誤爆されるとか、元根本は眠っている時間が長くなり、夢を見過ぎて現実との区別が付かなくなってしまうという事だろう。

がきんちょの頃に「もしも月給が上がったら」と大人達が歌っていたが、あの位が丁度良いのだ。パラソル、靴、洋服、なんと前向きで素敵な事か。頑張ったらご褒美を期待する。その頑張りが世のため他人の為、天下の為であれば良いのだ。美しい努力には美しいご褒美があって宜しい。ご褒美が無い時はそれは我欲の為の活動であったという事であろう。頑張っていると思っている時、鏡を見るのが良い。夜叉になっていないか確認するのが良い。

情報にアクセスすることが容易な時代だからこそ、自我の視点で連続した時間から必要な情報だけ切り取ってストックしていくと、都合の良いこと、悪い事が分別され集まってくる。都合の悪い事を他人の責任にし始めると、そこから夜叉が立ち上がってくる。情報は過去の反省にも使うべきだが、時間は常に進んでいくのだから、客観的に、未来の先読みにこそ使うべきだ。未来は生きている限りやってくるのだから、寝ている暇はない。それだけのことだ。