お祭り

中京地域にやってくる前は名古屋まつりなどと言うイベントは知らず、英傑行列などはガマの油地域では何の報道もされなかったし、興味もなかった。昨日の信長落馬も、まぁ、そんなこともあろうと、信長公の命に別状がなかったということであるから、次年度は縮小などとつまらないことは言わず、街の活気向上の為のイベントとして、今後も継続して頂きたい。例によって小生的には何の興味もなかったので、やっていたことすら知らず、お仕事中にネットニュースで落馬を知った程度である。

がきんちょの頃は100円玉を握って氏神様のお祭りに出掛けたものだ。100円という普段、使わない硬貨の威力はすさまじく、夢の大騒動だったという記憶がある。氏神様には妙な思い出があって、まぁ、こっぱずかしいので控えるが、当時の風景、音、におい、空気感が未だに身体に残っているから、余ほど、強烈な思い出であったのだろう。山車、お神輿が出て、太鼓が大地の鳴動を引き起こし、猛烈に憧れていた。あの「どん」に憧れていた。

日本中をぶらぶらと歩いていると、太鼓製造とか木魚製造とか、そんな何と言うか、怒られるけどニッチな商売が未だに成立していて驚かされる。考えてみればどんどん、ぽこぽこと叩くわけで、木だったり皮だったりは天然のものだから必ず朽ち果てるのだから、どうようの行為が続けられているのであれば、それは必要とされるであろうことは思いつく。すると、それを作ることが商売に成り得そうなのだが、どれだけの利益率ならやっていけるのだろうと、日本の伝統文化を支える皆様には頭が下がるのだ。

能や歌舞伎や日本舞踊においても、その愛好家がどのようにサステナブルな状態で有り得て、継続していくのか、これは心配したりするのだ。国立演芸場があり、舞台上の人間を育て続ける仕組みはあるのだが、その上に上りたいと願う者の育成とは難しいものだなと、どっかの学長選考とはえらい違いだなと苦笑いする。名古屋まつりは今年で69回目とのこと、伝統文化の領域に入っていると、名古屋の街の皆さんの元気獲得に繋がり続けることを祈るばかりである。お祭りは良い。そう思う。