生け垣に想う

生け垣って、その字のごとく生きていますから、ほったらかすとぐんぐんと大きくなるわけですな。水が豊富にあって、太陽光が降り注ぐと、自然の生き物って自由気ままに育っていくわけですよ。普通の生け垣ですから、同じ種類の木が等間隔に並んで植わっているわけですよ。それが、凸凹してくるわけですよ。東西南北、伸びる方向も違っていて、剪定なる作業をやって、世間様から見てそれなりに手入れをしているなと思って頂くようにするには、伸びていないところに揃えて、刈り込みをしないと「格好悪い」となる。

しかしながら、それって、自分自身が作り出した世間様であって、自分自身を鏡で見ていることになってんだよね。みっともないと想っているのは自分の価値観であって、枝が飛び出して、道路の通行に不都合を及ぼすとか、そんな反社会的な部分は絶対値として駄目なんだけど、それ以外は自分の意識の中の世界で自分自身を追い込んでいるだけなんだよね。その追い込まれっぷりが早い段階で来るか、ルーズなのかは、個人個人の心の器の大きさの違いと言うことでしょう。小生的には階段状に仕上げてしまうわけだ。これも価値観である。

何故、ここだけが伸びるのだろうって、不思議に思ったりすると、近い場所に異なる樹が生えていて、NHKの番組からの知識なんだけど、根っこどうして会話していて、お互いに助け合っているとか、そんなことがここで生じているのかなと感じたりするのだ。足を引っ張り合う人の世界よりもずっとコミュニティを大切にして、お互いを最適化させていっているということなのでしょう。動けない者同士だからこそなのかもしれないけれど、人類よりも遥かに長い時間を生きていて、身に着けた知恵なのでしょう。

刈り込んだ枝をカッターで粉砕して、根元に戻していくのだけれど、一年も経過すると土壌微生物や様々な生命が土に還していってくれる。これぞ地球が作り上げたシステムで、人類と言うエイリアンが自然のルールを乱して乗り込んできて、正に傍若無人。共生と言う勝手な言い訳の剪定なんだけど、剪定をすることで更に強くなっていくということも聞く。勝手な人間側の都合としては、刈り込んで気持ちよくなるという特典付きだ。全く寒くない11月の陽気の中の一仕事に思ったことでありました。