学ぶこと

背伸びはする必要はないと思っている。自らの場で自らが成すことが出来る事に対して最大限の機能を、他律機能として発揮できるかということなのだけれど、自律機能で突っ走ってしまって、最大限に努力しているとなってしまうと組織は空転する。親方と丁稚の関係の文科省と大学法人なんだけど、親方は「学び直しに率先して門戸を開け!」なんて叫ぶのだけど、そもそも論、社会がそれを理解していない。トップが「税収をばらまいちゃえ!」なぁんて言う人ですからね。寝て待っていれば兎が転ぶんだろうくらいに国民は思ってしまう。

工学教育の基準を満たすかという仕組みが日本に入ってきた時、そもそも論としてなんでこんなことが言われ始めたのだろうと思った時、米国に対して諸外国からエンジニアが職を求めてやってきた時に、リーダーの言語に対する理解度の違いが教育の質にあることに気付き、その基準を作ったことがきっかけだと聞いた。成る程なと思った次第。今もそうなのだけれど、そんな画一的な教育はナンセンスだという声は上がるのだが、ならばリベラルアーツをみっちりやろうよとなりそうなのだが、どうもそうではない。

自然科学、人文科学、社会科学を「科学」として学び、その不可思議さを追求していくところに学理探求の面白さへの気付きがあり、難攻不落の学理に取り組んでいく門を探すことが出来る。その人間性に繋がる学問をしっかりと身に付けさせようというのが技術者教育の基本であったのが、ネジ曲げて考えて、金太郎飴学生を量産化する教育と多くが捉えてしまったことは残念だ。今、組織として持っているのに発現させきっていない潜在能力があるのは勿体ない。

恐らくなのだけれど、多くの地方事業所としては、親方の命令よりも、今、目の前で学んでいる人達を未来の為にどのようになって頂きたいか、そしてその方策はどのような事が考えられるかに頭をひねりまくっている筈だ。卒業しやすいことが良いわけではない。人は負荷が掛からないと機能は高まらず、怠惰になっていく生命体だ。自然界の生命体とはそこが大きく異なる。ほったらかせば戦争まで始めてしまう。学ぶことは大切だ。一方で何を学んだからその人はどんな機能を他の人に影響を及ぼすことが出来るのかの認定を考えねばならぬ。簡単な事では無いのだ。やらねばならぬのだけれどね。