何故、何をしたい?

身の回りで起こっている現象なんだけど「より良くしたい欲求」を企業さんがお持ちになる。この「良くしたい」のは解るのだけれど「何の為に?」が伴わないといけない。しかしそれが「親企業が求めているから」では「お帰り下さい」となってしまう。それはお金で解決して下さいとなるわけだ。親企業が「今までなかったのだけれど挑戦してくれるか?」ということならオープンイノベーションは有効だ。単に小銭を稼ぎたいということで大学を使うべきではない。

商材を社会に届けるのは企業だけの役目という考え方は、世界には最初から無い。発展していく市民生活の中で生じるであろう新しい出来事に関わる学理は何かを先手を打って考えていく。更に、学理の探求を徹底的に追及していって、地球という星を傷めない学問に成長させて頂ければ、それはきっといつか、誰かが見出して、未来に活用して頂けるに違いないのだ。最先端というのはその瞬間においてであって、他の要件が揃う頃には枯れた学問だ。そんなもんだ。

円安が停まらなくて、恐らくこのままの政権が続いていけば200円くらいになっちゃうのではないかしら。価値の無いお金の流通する国は、要するに世界から見たら価値が無い国ということだ。セメントとヨウ素くらいしか資源が無い国で、価値を高めるには学問しか無いわけだ。その教育の在り方を徹底的に見直さないといけない状況に陥っているのは誰の目にも明らかなのだけれど、大英断というか、それが出来るのは総理くらいなんだけど、現場丸投げが延々と続いているわけだ。

大量生産、大量消費の社会にどっぷりと浸かって来て、それが少量多品種生産に方向転換している現状においてなお「良くしたい」欲求のみに取りつかれている。「良くしたい」は勿論、必要なのだけれど「あの人の為に何をしたい」から入らないと、良くする度合いが定量的に決まらない。するとあぁだこうだと無駄な時間を奪われる。それ故にお引き取りを願うし、そもそもお会いする必要も出てこない。他人の声に安心したいのなら、一千万円でも払って、役に立たないコンサルの声を聴くのが宜しい。大学はそんな相手では無いのですよ。そんな時代である。