出会ったことがある方が、神様として祭られているお社を拝見すると、人が神格化され、宗教が生まれるということが理解できる。その住まいの跡地が神地になり、脈々とそれが受け継がれ、何時しか心の中で神になる。凄い事だなと思う。教えを受けた方の感謝がそれを構築するわけだけれど、その感謝がどのようにして生まれるのか。人、一人という事では無く、例えばなんだけど、海外で大学を見学させて頂き、継続して巨額の寄付を受けて学生サポートをしている様を拝見して、感謝の有り様を考えたことがある。
巨大なキャンパスというか、街が大学というか。日本ではガマの油売り大学が学園都市の中核で、欧米の大学に雰囲気は似ているわけだが、それはその筈で、キャンパス設計が米国の某大学をイメージしたからだとお伺いしたことがある。大きければ良いというわけでは無いが、思想する林の小道くらいは必要なのかもしれない。鶴舞大学キャンパスにはそれを見出すのは困難だが、鶴舞公園まで含めればそれは可能だ。講義の空き時間帯などで、是非とも思想にふけって頂きたい。
感謝論なんだけど、あの大学で学んだからこそ今があるんだ、だから、現役学生が頑張れるように寄附をしようと形になることなのだろうなと思う。単に、どこどこ大学の卒業だから就職に強いとか、そんなレッテル論は消え去っていく。学問を丁寧に身に着けて、未来に起こり得る新奇な幸を創造することに関わることが出来、それによって、多くの人の笑顔に自らの知識が関わっているとなれば、喜びは大きいであろう。
地域の中核とはそんな人材を輩出している場だし、場は閉じているわけでは無くて、外界と常に流動的に接触を続けていかなければならない。卒業しやすいとかしにくいとか、それはあるかもしれないけれど、大学の教員が胸を張って合格・不合格を宣言できないようになってはならないし、自らの教育の質と信念に誇りを持たなければいけない。その集合体であればこそ、感謝が形になって現れるのだと信じたい。