ダイバーシティ

料理は雑味の妙である。澄み切った味など有難く無い。ご飯もお酒も雑味の妙が人を笑顔にさせる。人の交わりにおいても同様である。個々の味が認められなければ窮屈なだけだ。どこまで組織として涵養に成れるのか、それが個々の味を引き立て合う。ダイバーシティ環境とか言っていても、ルールに縛られているようでは成長は無い。無法地帯ではいけないが、時代の変容に伴う社会の変化においてきぼりを食っているルールを後生大事に守っている時代では無い。

当然の事ながら、変えるべきでは無いルールは存在する。解釈で逃げてばかりいると段々と形骸化してしまうしね。解釈もほどほどにしないといけない。その昔、某大型のファンドで「これって省エネですかね?」とお尋ねしたら、「まぁ、なんちゃって省エネということを何処まで認めるかですかね?」と大らかに笑っていらっしゃった方に出合ったが、それは余りにも余りということでなければ、まぁ、そういう事かなと、涵養具合が広くはなってきた。

雑味を何処まで許容するかである。本当の味があって、雑味はそれに付随するものだ。雑味ばかりが強くなるようではいけない。お酒のつもりが酢だったみたいなことはあってはならない。学びの場においても、画一性を求めていく現行から、そろそろ生き方を身に着けていただいて、自らの味を削ぎ落すのではなく、人間としての骨格を太く、そして雑味は色濃く残すような、そんな教育の仕方にシフトしていくべきでは無いのか。

研究の場においても、類似の分野だけに閉じている研究者は、とんがってはいるのだが、協調性が見られず、折角の雑味で他の味を活かすことが出来なくなる。尖がることは悪い事では無い。しかし、尖った味もハーモニーで更に素晴らしくなる。我が国の政治家が言う生涯学習は、高齢者に金を稼がせ年金を減らす方便だが、歳を重ねたからこそ得る知恵がある。雑味を活かし、新たなる知恵で次の世代を育て合う。それが真のダイバーシティではなかろうか。そう思う。