環境収容力

新聞を拝見していて「ほぅ」と思う事がしばしばある。新しい知見を公的機関が正式発表したものが記事になった場合だ。政治家諸氏のルールの見直しなどは、そうだろうなと思って終わりであるのだが、新しい知見はとても刺激的である。『放流しても魚は増えず』という中部経済新聞の記事である。人工ふ化の稚魚を河川放流したとしても、長期的に見ると生態系に悪影響を与えるのみならず、数を増やしても、親魚になって食糧になっていく数は増えないという。「ほぅ、それはそうかもしれない」と感じた次第。

野生生物は生態系のバランスの中に成り立っていて、それを壊すのは人間である。大陸移動によって強者が弱者を滅ぼしたということはあるが、それは自然の摂理でなんともならない。サケの養殖が、現場で拝見したりTVのニュースで大量の遡上を見たりと、当たり前のように見ていたので、特に川魚は養殖と放流が漁業に携わる人たちにとっては必要な行為なのだなと思っていたし、自分達の口に入ることが可能なのも養殖のお陰だと思っていた。

でも、何か嘘があるなと思ったのは、余市のニシン御殿を拝見した時。その場に残る唯一と言っても良いその遺構には「ニシンが浜に打ち上げられて、それを処理するためのニシン御殿であった。いつの間にか来なくなった」(超意訳)と拝見した時からだ。乱獲によって激減したと聴いていたことが嘘であったという事だ。一つの種が増えすぎると絶滅に向かうというのは恐竜の時代から繰り返されていることで、それを顧みず、放流量を増やしては、環境収容力の閾値を超えてしまっていて、淘汰を促進していたという事だ。

人間社会もそうなのだろうなと思っている。特に、大戦によって激減した時から爆発的に増加して、2035年くらいから、急激に18歳人口が減っていく日本。全く類似しているではないか。自然界と違うのは、人の寿命は長いという事だ。若年層が欠損したら、高齢者だけが残っていくのは当然の摂理である。労働人口が減っていくのだから海外から食料もエネルギーも入ってこなくなるのは自明の理である。徹底的にその方面に税金を投入していくべきだ。その為の要素研究、そして開発に挑むべきである。挑まなければ淘汰される。それだけのことだろう。