しみじみと思うのだが、若い内というか、大学生の内というか、社会人未満の内というか、大失敗は大切である。国のお金を使おうとすると、チャレンジをしろと言っておきながら審査委員会では「実現できそうにないから不採択」とかね、結局赤門大学出身の審査員が前部を決めちゃうみたいな流れがあるし、大成功しかしてこなかった方々だから、失敗しそうなことを後押しして、奇跡の発生なんてことには予算は組まないのだな。
失敗にもいろいろあるんだろうけれど、七転び八起きが許されにくい社会では、みんな窮屈な思いをして、我慢している内に挑戦という単語を忘れてしまうのであろう。少々の「嫌」は我慢してしまって、心を飼いならしてしまう。あるいはその逆に、切れてしまうとかね。殺伐としたニュースが闊歩するわけだが、そんな人間ばかりでは無い筈なので、心が穏やかでさわやかな方々ばかりだと信じている。性善説人間としてはそう思ってしまうわけだ。
近しい方とお話をして、どうして人の足を引っ張ろうとするんでしょうかね?となったのだが、それは思い出すのもはばかられる大失敗をした経験があるかどうかだろうという事に決着した。失敗を重ねて威張るなとおしかりを頂きそうだが、まぁ、大失敗の連続でしたな。ウルトラC級のいじめも頂きましたしね。そんなこと日常茶飯事です。可愛そうな人達だなと思うだけなんだけどね。そう思うと同時に、成功者なんだなぁって思ってしまいますよ。優しく無い人達は。
思い出したくもない大失敗をするためにお金を使いなさいと言われても困ってしまうだろうけれど、夢を描ける人って、案外、そんな経験をしてきているのでは無いかなと感じるのだ。懐が深いというか、暖かいというか。最後の最後で頑張れる人。もうひと踏ん張りをお願いできる人って、結局、自らの価値観に基づいて行動して、どでかい失敗をした人でしょう。挑戦って、結局、失敗する確率が高いから挑戦であって、成功するようなことって大した事無いんですよね。それを解った人がリーダーにならないから社会が妙なことになるんでしょう。