PCなどで物書きをしていると、例えば、この戯言でもそうだが、これを「ざれごと」と呼ぶ人がいらっしゃるが、これは間違いで「たわごと」である。正にたわごとではあるが、読めるので勘違いと言うことは当然あるだろう。これが責付くとかなってくると、とっととやって頂戴!などと受け取れない。基本、読めないのだ。近年、PCの変換機能が賢くなりすぎて、おぼろげながら分かっている意味の単語をひらがなで入力してみると、どうしてこれがそう読めるのだという漢字変換が成されることがある。これは戯言にしても無理だろうという時は、まぁ、ひらがなに置き換えることにしている。
これが単語だけならまだ良いのだが、主張が伝わっていないのに、胸を張ってファンド提案などしてしまっていることに不安を覚える。次年度に向けた鶴舞大学の基礎的研究費申請が極めて不調な状態にある。様々な施策を打って、なんとかならないものかと工夫をしてみても、申請者の聴き力がゼロでは話にならない。聴き力と言ってはいるが、単に会話における傾聴力というだけではない。ファンド提案書には必ず「こんなことを書いて下さいね」と、丁寧に申請者向けのアシストワードが示されている。これを読んでいるとは思えないのだ。
申請書の審査などをさせて頂くことがあるわけだが、応募要項を見ていないでしょう?という申請書にしばしば出逢う。そしてそれは年を重ねるごとに多くなっている気がする。申請書の書式がワードファイルの1ページもので、記載欄を自在に広げてトータル3ページまでと書かれているのに、1ページの見本のまま提出しちゃうとかね。それなりのポジションの方であっても、そんな悲惨なことになる。読み込もうとする気持ちが無い。文字を作った人の気持ちに接しようとしない。即ち、聴き力がゼロと言うことだ。
自分の主張だけが正しいという、まぁ、羨ましい考え方である。そんな連中の得意技は「皆の意見を聞いてから決めるべきだ」とかね、ごもっともに聞こえるのだけれど、追い詰められた地方大学にそんな悠長さは無いのだ。様々な力学が働く昨今である。ぎりぎりの思考を巡らさないと、生き残ることなど不可能である。まぁ、こんなことも聴いちゃぁいないのだろうから、無駄な独り言なのだけれどね。だから戯言である。