夢見ようよ

自分の行き先が、何か、ぼんやりした空間だなと感じていると、人は不安に思う生き物かもしれない。小生的にはほんわかして、適当で良いではないかと思うのだが、ゴールテープというか、そこに到達しましたと言う境界線を欲するのかもしれない。何でこんなことを思ったかと言えば、何か、小さくまとまった国だなと感じたからだ。

GDPを大きくしなければと内閣府が何かを考える時に、そうだ、ベンチャーだとかね、目先にあるツールを使えば何とかなるだろうみたいなことを考える。そんなにうまくいくはずは無いのにだ。ディープテックに撒く金を増やせばすぐにアイデアが出てきて、ユニコーンが生まれて、外貨がじゃぶじゃぶと入ってくると思ってしまう。そんなわけは無いのだ。

夢を見ろと言うけれど、夢で終わってしまうと失敗者のレッテルを貼って、二度と立ち上がれないような雰囲気を作り出す国民性において、真の夢など見ることは出来無い。経験があるが「偽善者!」と大声で罵られて、あらぬ噂を立てられて、苦しい思いをさせられる、そんな国だ。

個性尊重とか言い始めているけれど、政治家が変わらないからね。男性の老人が牛耳っている社会において、呪詛の飛ばし合いが政治の方向性を決めてしまっている。世界の中の一つの国家でしか無いのに、個人の感情に引きずられて国の方向性までが決められてしまう。愚かなことだ。それでもゼロから数字を生み続けようと奮闘していく。それだけのことだ。