暗視野

人は気持ちを落ち込ませる生き物であるから「暗い気持ちになる」というのは自然な事である。自然であるのだから落ち込まないように努力するなどというのは不可能に挑戦する愚かな行為である。明るく楽しく感じられることに挑むというのは気持ちが一点集中、精神のエントロピーを極限まで下げる行為であるから、そう簡単に実現はしない。あれこれと悩む状態は、熱力学的に安定な状態であるのがいやらしい。

駆け込み寺担当となると、いろんな方の悩みが襲ってくるわけで、聴いているだけでどよんとするのだが、お話をお伺いすると人の世の切なさというか、全く世情は成長しないなと感じるわけだ。辿ってみると老人力の破壊的精神構造が、旧態依然万歳と叫ぶことに、若者が挫けていく構図が見えてくる。

どこぞの知事殿では無いのだが、強大な老人力を背景に我が国の発展に待ったをかけるとかね。老人力の恐ろしさは、SDGsでは無いのだけれど、それが絶対に正しいでしょ?と、それを批判すると批判した側が悪と感じる世論を獲得することにある。知力はあっても背後霊力を持たない若手は心を折っていく。

心は折れるのだが、折れた箇所は、骨折とは違って以前より強くなるなどということは決して無い。暗い淵から立ち上がることなど出来ようが無い。だからこそ、誰かが耳を傾ける必要があるのだが、耳を傾ける者の価値観が、弱音を吐く人の価値観と方向性がマッチしていないと伝わらない。価値観の相違者が相手だとエントロピーが更に増大するだけだ。何が言いたいわけでは無いが、そんなことがありましたよという、年度の変わり目の出来事である。