博士人材

博士人材を雇用しない我が国だが、雇用する側にもそれなりの言い分があるわけだ。博士取得者はアカデミアを目指していて、ものづくりを好きにならない。簡単に言ってしまうとそう思われているらしい。そうかもしれない。日本の博士取得者が極めて少ない現状を見ると、大学で博士課程においてどっぷりと研究に浸るわけだが、浸っている間に研究しか見えなくなって、社会と隔絶し、研究推しになってしまう。すると社会活動などに興味が向かず、研究オタクに突っ走る。

それはそれで極めて重要なことで、人のことは全く言えないわけなんだけど、それは余りにも博士人材が少ないことに要因もあるのだ。少ないが故に「ひょっとすると定年退職する教授のポストをゲットできるのではないか?」と思い込み、また、指導教員も逃げられたくないものだから「残れる可能性はゼロではない」と、嘘ではないことでたぶらかす。大勢いれば、まぁ、大学に残るチャンスは無いなと最初から諦めるのだ。それでアカデミアに固執してしまう。

海外では企業の研究職はほぼ博士取得者で固められているわけだが、それは現場における発見力、知的財産生産力の高さが圧倒的だからである。企業の一員として社会貢献の場に立っているわけだが、それは企業の開発のレベルの高さにも起因する。ものまねではない、ビジョンを抱き、企業哲学の元、他者と他律機能で共創し、利益をもたらす開発に取り組んでいく。開発の最中に必ず生じる課題を、学理まで掘り下げ、社会的問題が無いことをエビデンスをもって解決する。その力に正当な対価を支払う。

我が国の廉価・短納期という謎の哲学を貫く企業において、博士人材は無駄である。しかしながら、インバウンドしか稼ぎようがない我が国における暗闇を脱するのは、やんちゃな博士人材である。企業は博士人材育成に銭を投じなければならない。社内人材を教育したら離職するという低次元の思考で、どんどんと企業力を落とす愚を続けてはならない。教育は100年の計である。今から始めれば2124年頃には、世界において儲ける企業が我が国にも生まれるかもしれない。そう思う。