隣の芝は

結局は経験ということなんだけど、経験って生きているだけでは決して積分値にはならない。負の微分値は大きくなっていくんだけど、その傾斜をどれだけ緩やかにするということかな。微分値も積分値も無くそうと思うと、自分が亡くならないといけないわけで、そうなると、そもそも無用なたわごとも言わなくて良くなるから、まぁ、いいかなという気もするのだ。どうも、人の経験値を全部ただどりしようという輩が、いつの時代にも現れるらしい。

らしいとか言っているが、実際に現れるからそう言っているだけで、なんで血の汗流して自分で何とかしないのかなと思うのだ。そもそも、人の経験値なんて奪うことなどできないのにね。羨むよりも自分しか出来ないことに挑めばよいのにと憐れんでしまう。他人の行動に感動している暇があったら、自分で何かすれば良いのにと思うのだが、どうも隣の芝は青いらしい。

年寄りのやることは見事である。何故かと言えば無駄がないから。行動と結果が見事な因果関係を結んでいて、相関関係を完全に排除した活動をしていらっしゃる。松の木の剪定仕事などを拝見すると、それはもう見事というしかない。人づきあいも同じで、無駄を排除するのが良い。昨日、一昨日と付き合いのの排除に成功したわけだが、これからもどんどんと排除していこうと思う。

人に取り入ることが出来ない性分なので、その手の方の気持ちはさっぱり分からないし、分かる気も無い。政治屋さんはそんなものなのだろうけれど、他人が出来ることなど、出来なくて良いのだ。いや、やらなくて良いのだ。その人にやらせておけば良いのだ。内省で自らの価値観を問い質し、為すべきことを為せばよいのだ。ただそれだけなんだけどね。どうも人が出来ることは自分も出来ないと悔しがる人がいるらしい。哀れなもんだ。